令和6年1月調査報告(清瀬等)

1月27日(土) ・・・ 東久留米から秋津まで西部線沿線を歩いてみる。近世の人口密度が低かったので、ランドマーク(お地蔵さんとか)が少ない感じ。縄文時代は案外人住んでいたらしい。

〇小山台遺跡公園 ・・・ 皮膚病のタヌキらしいのがいましたがすぐ逃げていきました。南に黒目川があり、新石器時代の遺跡らしいです。

旧石器時代住居跡。2万年前だそうです。

丘を降りていくと黒目川。その先に東久留米の町がよく見えます。

弁当は「つかう」というんですよね。なんでか知らんけど。炭水化物にふりかけ類、美味い。世間様はもっといいものを食っているというが、これより美味いものがあるのであろうか。

遺跡公園の南側にある子ノ神社です。中世期に地頭であった矢部氏が勧請したという。

矢部氏館跡推定地。左側は西武線、向こう側はさっきの遺跡公園です。矢部氏は北条配下だったが農民とみなされたようで、徳川期にもこの地で生き残り、その後牛込に移ったという。

〇清瀬市郷土資料館 ・・・ 1月4日から改装されて見学できるようになった、というので来ました。清瀬は確かにサナトリウムの町なんだよなー。

西武線関係が充実しています。

ほかのも充実してます。ゆったりしていていい空間です。

〇中里の富士塚 ・・・ かなりでかい。舟運がないので溶岩が運べず、赤土だけでできた珍しい富士塚だそうです。

資料館でゆっくりしていたかったが、そうもいかぬ。がんばって富士塚に登ります。

化政期に作られたんだそうです。今も地域のひとたちがお祭とかしているようです。

富士塚からさらにがんばって行くと「中里の方形館」といわれる遺跡様地形に行きつきます。いつの時代のどういう館かわからないのですが、方形館であろうと推測されていますが、私有地にあってこれ以上は入れない。

雑木林をたくさん歩きました。こういう武蔵野をもっと歩くんだと、田舎から出てきたころは思っていたものだが。

どこにつながっているのだろうか・・・。

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