令和6年1月調査報告(南伊勢地方)

年末年始の調査報告のうち、伊勢国中部・南部分です。北勢・伊賀についても調査しております。岡本全勝さんのご指導・ご鞭撻(ほとんどご鞭撻ですが)を受けつつ、さらに報告を続ける予定です。今年もよろしくお願いします。

12月31日 ・・・ 中勢・津市南部の戸木(へぎ)を調査。旧奈良街道沿いにあり、中世北畠氏の一族・木造氏の本拠でした。中世末、北畠氏はまず織田氏と戦います。この際、北畠一門であった木造氏は織田氏に寝返ってともに松坂・大河内の北畠氏を攻めます。最終的に北畠・織田が和議、北畠氏に織田(北畠)信雄が入る。本能寺の変のあと、羽柴秀吉が北畠信雄を攻めますが、この時は木造氏は北畠方として羽柴方に抵抗。・・・も空しく落城。

〇戸木城 ・・・ 木造氏の城。規模が大きかったらしい。

小学校の敷地が城跡となっており、近づけません。学校の奈良街道側の高台(ここもおそらく城跡の一部と思われます)から覗いてみました。〇印の中に城址碑と、奈良街道の道しるべがあるようです。

〇風早城 ・・・ 羽柴側が戸木城の懸りの城(攻城用の一夜城)として築いたそうです。

風早城のある丘。戸木城から1キロ少々北へ離れたところ。築城者は蒲生氏郷らしい。

丘に入ってみました。掘割がはっきり残っています。

〇宮山城 ・・・ これも羽柴側の懸りの城。風早と二か所に城を設けたことで、木造側は抵抗を断念して退却したという。

この神社(敏太神社)の裏山が城跡です。

土塁と曲輪跡が風早より明確に遺っています。縄張りは風早と同じ人物によるもの、と推定されています。織豊(特に蒲生など近江系)の縄張りがよく見えて勉強になった。みなさんも勉強すべき!

1月1日 ・・・ 伊勢神宮年越し参りで疲労困憊するも、午後に活動開始。神宮(山田・宇治)外港の大湊を調査。

現在の大湊港。中近世の港湾はこの右手(宮川河口)により近い方だったようです。

近世の灯明台跡。上の写真を右手にずっと行ったあたりにありました。

古代から確認され、中世に殷賑をきわめ、近世も伊勢湾航路の重要港湾であった大湊、伝説では持統天皇、徳川家康(伊賀越えの後)もここから三河に向かったと言われますが確証は無いようです。だが、南朝の義良親王(後の後村上帝)がここから東国に向かったのはガチ。義良親王出航の地の碑です。

元禄の豪商・山中道喜らが建立したという石像大仏。この大仏を拝んでいるころに能登地震が起こっていたようです。

〇新開の臥竜梅 ・・・ 伊勢市街から大湊に向かう途中にある名所。菅原道真が自らの身の潔白を伊勢神宮に証すため、臣下のやつに託して梅を神宮領に植えさせた、という伝説の梅です。14世紀ぐらいからは有名だったそうです。(「勢陽五鈴遺響」による、と現地の看板に書いてありました。)

近世は祐善庵という建物があったようです。背景、伊勢地方の普通の家ですが、屋根の傾斜の緩いのがこの地域の特徴ですね。

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