令和6年1月調査報告(伊賀)

1月2日 ・・・ 正月で肥ってきたので伊賀に行ってみます。

〇敢国神社 ・・・ 伊賀一宮です。

二十年前ぐらいに一回来てます。おしるこ食う。無病息災になるはず。

〇御墓山古墳 ・・・ 三重県最大の前方後円墳です。というだけでなく、3世紀半ば、大和に前方後円墳という型式のランドマーク建設が始まってまだ数十年のころ、大和と同じ形態のスマートな墳墓が造られました。おそらく大和朝廷と深い関係のある伊賀の支配者、の墳墓です。

大正年間、最初に史蹟指定を受けた国指定史跡の一つです。おかげでよく遺りました。

大和朝廷が作ったのと同じ形の、バランスがとれた細身の前方後円墳です。写真は造り出しのあたりから後円部を見上げた状態。後円部の真ん中あたりに陥落部があり、埋葬跡だとわかります。

〇伊賀国庁跡 ・・・ 下下国・伊賀の国府なので小さめです。

明治以来、川を隔てた「府中町」にある府中神社のあたりが国庁跡だと思われていたのですが、全く遺構が無い。昭和後半、この地の土地改良工事が行われた時に、国庁跡が出ました。地名より地下の方が信用できる、といわれた遺跡です。

〇伊賀国分寺跡 ・・・ 下下国なのでここも小さい構造になっています。

国府から一宮を経てさらに南下したところにあります。意外と離れています。

いくつかの土豪館跡を見ながら、今日の最終目的地である百地の谷へ。

〇百地砦(百地丹波守館)跡 ・・・ 伊賀の土豪の館跡として典型的な遺跡です。信長さまに虐殺された「天正伊賀の乱」で反信長の中心になった百地丹波守はここでは全滅せず、別のところに立て籠もったそうですが(百地丹波守自身は行方不明)、男女300人が住んでいたというこの砦跡はそのまま廃城となり、現在は三重県下屈指の〇霊スポットと言われるのですがががががががががが。

本曲輪であったと思われる廓Cに解説版が立っています。だんだん日が暮れてきてヤバイ感ただよう。

関東や織豊系ではあまりみない縄張りで、おもしろい。これは南側の虎口から廓Cを覗き込んでみた。

廓Cと廓Bの間の見事な堀切。ただ、C→B→Aと連郭式にだんだん高くなっていくのですが、防備の思想等がわかりづらい。実戦を考えたものではなかったのではないか。

領地を見下ろせる見張り台らしきものとか、百地家の菩提寺、遺った子孫の御墓とかありましたが、だんだん暗くなってきたので省略。なお、堀切の奥に通称「式部塚」といわれる「南都女官式部墓」というのがあって写真も撮ったが・・・さすがにこれは公開しないでおきますねねねねねねねね。

式内社も有名古墳も中世城砦跡もわんさかあるので、また調査しなければなりません。

ホームへ
調査目録一覧へ

WordPress.com Blog.