令和6年1月調査報告(さいたま見沼)

1月8日(月)・・・成人の日を利用して、さいたま市見沼通船堀でも見に行くかのう。

〇浦和くらしの博物館民家園 ・・・ 旧浦和市内のものを集めています。

蓮の季節がいいみたいですよ。

飯を食う。赤いどろどろにみえるのは「たらこ」です。黒いのは「のり」あんまり変なものは食べてません。

このかっこいいのは中嶋家住宅ですかね。

〇芝川八丁堤、水神社 ・・・ 芝川が江戸までながれているんです。東西の通船堀と芝川をつなぐのが八丁堤。そこに水神社があります。祭礼のときの写真などあって昔は栄えていたことがわかります。

芝川の左手(西岸)が「八丁堤」。赤矢印はそれぞれ左が西、右が東の通船堀への「締め切り」(閘門)です。

上の写真の右手側にある水神社。

〇見沼通船堀・・・享保十六年(1731)、芝川の池を干拓して作られた見沼田んぼに、芝川と見沼代用水(東・西あり)とをつなぐために作られた閘門式運河です。この通船堀のおかげで芝川から船で江戸までものを運ぶことができたそうです。江戸時代よりも明治時代の方がよくつかわれたらしい。昭和6年まで「特許」があったとのこと。

通船堀東縁。ずっと行くと見沼代用水(東)と下の富士塚に突き当たります。突き当りの閘門を「仮締切」というみたいです。

こちらは通船堀(西縁)。こういう「関」がいくつかあります。荷物の上げ下ろしができる場所です。

西の仮締切のところ(今はつながっていません)。見沼代用水(西)が流れています。

〇木曽呂の富士塚 ・・・ さいたま県内最古の富士塚だそうです。「東宮さま」がお見えになっているよし。船舶交通の研究者の方だと思います。

用水の方から見上げるともっと高いんですが、これは裏側の「木曾呂」の集落側から撮ったものです。

〇見沼通船堀差配鈴木家 ・・・ もとは江戸で差配してたらしいんですが、うまくいかないので現地に移り、昭和の初めまで差配してました。

豪壮でかっこいい建物です。母屋は公開されていません。裏に入って通船堀側の納屋(の外側)などを見学できます。

〇附島氷川女体神社 ・・・ かつては目の前まで見沼で、そこに突き出した「附き島」だったようです。当時は女神様は、年に一回船で渡御していたよし。

なんとなく附き島の地形が想像できますね。裏側が現在の通船堀、享保までは湖になっていたはず。

勉強になった。やっぱり近世は大したものである。それにしても、もう30年も前に一緒に見に来た連中はえらくなったやつもいますが、死んだり病気になったりしてしまった。今日は一人で来ました。

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