令和5年12月調査報告(河越館跡)

12月23日(土) これは仙波にある川越城ではありません。入間川を渡った霞ヶ関側にある「河越氏館」及びその後継である「山内上杉氏陣屋跡」のことです。史跡名称は「河越館跡」です。

〇新日枝神社(いまひえじんじゃ)・・・11世紀、秩父平氏の一派・河越氏が、白河法皇に河越荘を寄進、自らはその荘官としてこの地を支配した際、法皇の勧めにより京都鎮守の日枝神社を勧請したもの。

河越氏の一族が室町期に江戸氏を称して港町江戸を支配した際に、この新日枝社を勧請したのが、後に天下祭を催行し、今にいたる赤坂日枝神社である。

〇河越館跡 ・・・ 国指定史跡ですよ。

新日枝神社から入間川方面に五分ほど歩くとこの碑に到達します。

国指定史跡範囲が広場になっており、それに隣接して史跡範囲ではないんですが上杉氏時代の陣屋跡地が空き地(野原)になっています。これは史跡範囲のほぼ全景、河越氏館時代の建物区域らしい。赤丸は「塚状遺構」、青丸は「井戸跡」、赤矢印は河越氏館時代の堀跡。

とりあえず飯食う。寒いので手がかじかみますが。

塚状遺構です。河越氏の先祖崇拝遺跡ではないかとのこと。遺骨など出てきた。塚の上に何か建物(お堂みたいな)があったのではないか、確認できてないけど、ということらしい。

井戸跡。覗いてみましたが、今は井戸にはなってません。井戸掘った後、広い水洗い場のような形でなく、まわりを固めてこんな形にしていたそうです。

史跡範囲から外れますが、上杉氏時代の土塁。意外とかっこよく遺っている。そのうち指定されて整備されるんだと思います。

史跡に隣接する時宗の名刹・常楽寺。河越氏は比企局系のため頼朝に重用され、義経とともに壇ノ浦まで活躍。義経没落後一時失地しますが一族が御家人として再興。その後、南北朝期まで河越荘を基盤にしていたそうですが、1368年だかに鎌倉府に謀反し、没落したとのこと。常楽寺はもともと河越氏が創建したようですが、上杉氏時代も経て、北条・徳川時代を生き延びた。

常楽寺門前を通ると、もう入間川である。この付近に律令期の入間郡家遺跡もあるはずですが確認できませんでした。

ホームへ
調査目録へ

夜は竹芝桟橋からお出かけします。さらばじゃ。

WordPress.com Blog.