令和5年12月調査報告(杉並区横断)

12月3日(日)

朝は寒かったが暖かくなってきたので、善福寺川を歩いてみます。

〇杉並区郷土博物館 ・・・ 企画展「大正天皇の后 貞明皇后展」を観に行く。知り合いが関与しているんです。皇后は御幼少のころ五歳まで、杉並の大和田家に預けられていたんですね。皇后となることが決まる(十二歳)と「恐れ多い」として幼いころの御物などはすべて焼き申し上げたという。

これを見に来ました。災害救助や外交に関するものが中心で、皇后が大正後半から昭和にかけて果たされた政治的役割についてはやんわりと触れもせで過ぎる程度でした。

通常展も見て行きます。100円です。杉並は善福寺川に沿って縄文期の遺跡の多い地域で、弥生・古墳になると新宿周辺が中心になり、杉並の遺跡は東半に偏るようです。

野外展示は100円の外ですが見て行きます。これは区内各地での工事等に伴って集められてきた信仰に関する石碑だそうです。右から二番目のは玉川上水に身投げした人たちを祀るもの。

〇善福寺川をさかのぼる ・・・ 以前、新宿から和田公園までは歩いたので、そこから上流に行く。

まず腹ごしらえだ。赤い生肉のように見えるのは焼きシャケです。

鳥がたくさんいますね。カワセミもいました。

〇伝・成宗城跡 ・・・ 鎌倉街道を瞰制できる丘の上にあります。周囲の住宅地はなだらかになっていますが、ここ(某女子大研修センター)には崖線が残っています。確かにあの上に城が作れるかも。

善福寺川河畔から北に向かう鎌倉街道。この左手に伝・成宗城がある。

赤い矢印の線を見ていただくと武蔵野崖線(いわゆるハケ)がはっきりわかります。

〇善福寺池 ・・・ 頼朝さまが矢でついて、水が出たという。

これは下池の方です。到着時は16時で、少し暗くなってきました。武蔵野の冬の初めはさびしいなあ。

内田秀五郎さん。昭和はじめの上荻村の村長さんで、当時日本最大の土地区画整理を成し遂げた。

遅の井の名称は七本目の矢でつくまで水が出なかったからだという。

遅の井の瀧です。もともとは泉で、瀧は公園整備のときに作ったもの、ということです。現代の善福寺川の源流はこの瀧だということになっています。

遅かったけど水が湧いたので、頼朝さまが感謝してお祀りになったという弁天堂です。

〇伝・善福寺城跡 ・・・ 誰がいたかもわかりませんが、城跡であったという。

右手の林には雰囲気残っていますね。ほんの少しだが。

今日はよく歩いたね。

肝冷斎が40年前に食べておった「五目おじや」の承継商品である「五目みそ」。むかしはこれにごはんを入れて、食べても食べても増えてきて、しかし、そんだけ食っても腹いっぱいにならなかったのになあ。

おまけ。

やはり東京も杉並あたりまで来るとまだ外ネコがいるようです。こいつは肝冷斎が電柱の下に置いたクリッピーを肝冷斎と距離を置きながら食いに来たアホニャンコだ。

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