令和5年11月調査報告(巌殿観音)

11月25日 東松山西南部にあります。

〇足利基氏館跡 ・・・ 尊氏の二男・鎌倉公方基氏さまの陣城と伝わる。九十九湿原を南濠にしています。

この家が「館」なのではありません。この森の中に北土塁が東西(写真の左右)に伸び、森一帯が館跡と推定されています。写真中央から家の右側に入っていく谷(廃田になっています)が堀切の跡で、その奥の繁みの中に「物見台」跡とされる高みがあります。藪がひどくて入れませんが。

左手の土手が西土塁。上の写真はこの道をずっと先に行ったところです。写真右手の低地が今は小川になっている九十九川沿いの「九十九湿地」。館の前濠の役を果たしていたとされます。

〇鳴かずの池 ・・・ 弁天池。カエルがいないので鳴かずの池という。

矢印が池の中の島に立っている弁天堂。弁天堂の向こう側は水があるのですが、こちら側は空堀状態ですね。ちなみにこの弁当は炭水化物の上に「あじの南蛮漬け」を乗せてみたもの。味わい深いものができました。

〇庚申堂の板碑 ・・・ お墓の中に立っていました。このへんでは大きな板碑らしい。

左端に弁天池の赤い橋が見えます。

〇巌殿観音(正法寺) ・・・ 門前町の通りが現存しています。

ガードレールになっているところが「惣門橋」。ここからずっと直線で正法寺まで1キロ余りが、かつての門前町。いまは町家ではありませんが、宿坊がいくつか残り、かつての家々の屋号が看板で表示されていて、むかしを想像することができます。

門前町を通り抜け、そこそこ長い石段を昇りきると正法寺です。すぐ近くに駐車場があり、ここまでくるまでこれたことが判明。マジメに惣門橋前の駐車場に停めてきたのに。歩数稼いだと考えればハッピーな気持ちになれる!はず。

正法寺石段上の鐘楼から見下ろした門前町。矢印のあたりが惣門橋です。かなり歩いてきたんです。

・日本百観音 ・・・ 本殿横の岩壁に彫られている。

この左右にも広がっています。百あるかどうか数えてません。かなり雑に置かれてるだけ、のやつもいました。

・判官墓 ・・・ 正法寺門前から大東文化大の敷地に少しはいったところ。北条氏にヤラれた比企判官を祀る。社名は「比企大神」になっています。

鳥居などは大東文化大が作ってくれたのだと思われます。

〇物見山 ・・・ 巌殿観音から道路を隔てたところにあります。

関東平野が見えます。あの町は大宮のあたりでしょうか。なお、この背後方向に富士山も見えると書いてありましたが木の茂り方からみて絶対無理。

〇太平洋セメント専用線跡地 ・・・ 専用線が走っていたところが遊歩道になっています。かなり高いところを走っていたようです。

矢印の高架橋みたいなやつの上を走っていたようです。もう少し近くに行きたかったが人家があるので生きた人間に見つかるとヤバイ。

〇弘法の水 ・・・ 巌殿に向かう商人が渇いていたところ、旅の僧(実は弘法大師)が杖をついて湧き出させた泉という。

泉は見つかりませんでした。まわりに家もないので、夜中ここまで来たら怖いと思います。南無、金剛遍照!

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