令和5年10月調査報告(仙台・多賀城)

10月8日(日)、観タマの後、仙台市内を調査するが・・・。(写真はじわじわ)

〇薬師堂・陸奥国分寺跡 ・・・ 薬師堂にのらねこがいたんです。ケガをしており栄養失調状態。近くに保護のためのワナが仕掛けてあった。のらねこの動きが悪いのでしりをたたいてみると、いわゆるポンポン猫(おしりをたたかれると喜ぶ猫)だったので、不自由な状態ながら興奮して体が柔らかくなったみたいので、保護ワナに入って一発逆転を狙うしかない、みたいなことを説教しました。寝転がってぽんぽんしていたのでかなりのまずい人みたいになっていたと思います。えさをやっていないことを確認に来られた老人もおられました。夕方になったので説教を終えて「ほんじゃね」と去りました。弱ったネコを置いて消えていくという冷酷・合理的な振る舞いは戦国武将みたいですね。

薬師堂入口。

これが薬師堂です。

国分寺跡の案内センター。柱列の一番奥に資料室があります。

名取市増田町の増田神社。15世紀に菊池一族が奈良から勧請。江戸時代の検断(名主)菊池家を中心に増田宿の鎮守となったそうです。ちなみに撮影者が立っているのは奥州街道。

10月9日(月)、今日は朝から雨で11時ごろ観タマは中止の連絡が来た。

〇名取市歴史民俗資料館 ・・・ 5年ぐらい前には建設中でした。なかなかいい感じのができています。名取老女、熊野三社、古墳、山城、増東軌道などの情報を得る。今度来たときには山城行きたいね。

中止が発表されると雨が上がるの法則通り雨はやみました。

名取市にある東北最大の雷神山古墳の模型です。古墳はコロナ前に実地に・・・と、当時の調査報告にリンクしようとしましたが、今年の春以前の記事はもう散逸してるんだった・・・。

・増東軌道(増田町=閖上港間、大正末~昭和13の軽便、ディーゼル単車鉄道)

増東軌道ターミナルの増田駅跡地。矢印は庄司家。

・奥州街道(幕府の定めは白川までで、そこから北は伊達氏が作る)
・増田村 ・・・ 菊池、三浦

〇多賀城市へ ・・・ 楽天ができた年、だから20年以上前に来て以来です。
・末の松山・沖の石(興井)、庚申塔など

末の松山。20年ぐらい前に来たときはもっと森だった記憶があるのですが・・・確認しようとしてももう散逸しているんだった!

沖の石。確かに住宅地の真ん中にあった記憶はあるが、もっと高いところから見下ろしたような気がしてならないんです・・・。

昭和40年頃まではここに虫追いに来たそうです。

・おもはくの橋、のだの玉川

水辺空間が整備されていました。「おもはくの橋」から「のだの玉川」を望む。

名高い歌枕の数々だ。西行や芭蕉など実地に来やがったひともいます。
・浮島、浮島神社、源融合祀

確かに島のような丘の上です。

・多賀城市埋蔵物センター「史遊館」

埋蔵物より民俗資料展示が充実していました。


〇多賀城跡
・壺の碑

20年前は林間にぽこんとあったが、今は工事中、なんか作ってますよ。

二十年前と何も変わらずにそこにある。石の命にくらぶれば、ニンゲンの月日の短いことだ。

・政庁跡(大整備中)

来年の多賀城1300年に向けてあちこち整備中。

・多賀城東門跡

門楼自体三回立て直されているそうです。

・多賀城北東限
・多賀城神社 ・・・ 後村上天皇を祀る

案外忘れがちですが、親王時代、二度にわたって多賀城に開府した。

・多賀神社 ・・・ 長寿になるよ。

古拙愛すべき社殿です。六月地区政庁発掘のため50メートルぐらいずらされた模様。

・陸奥総社 ・・・ 陸奥の式内百社をまとめて祀る。

多賀城丑寅守護になるのでしょうか。いい雰囲気の場所もありました。夜はよう行かん。

・アラハバキ社 ・・・ 東北地主神アラハバキの神社があるというので挨拶に行こうとしたが・・・。

この奥の人家の隅にあるようなので、さすがに関西人にはお参りしずらい。

〇東北歴史館 ・・・ ちょっと詰め込み過ぎでは。

多賀城駅の前にあります。

ほかにもいろいろあるんですが、「東北の人形たち」コーナー。奥には福島の「お人形さま」だ!

コワいのをなぜそろえているのだ。これでは夜になったらいけません。

土地勘のある人が↑の移動、雨中・徒歩と聴くと、異常感が湧くぐらいの距離だと思います。でもやっぱり人力で調査すると体にいいですね。3万5千歩ぐらい歩いたし、いろんな歌うたいながら歩いたぞー。

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